カテゴリー:独り言 2009年05月05日

党内の小沢代表辞任論に一言

楽しいGW期間向きの話題ではないが、民主党内で燻る「小沢代表辞任論」に一言。

3月の小沢民主党代表の秘書逮捕事件から1ヶ月以上がぎた。

その間に、解散総選挙の話題もどこへやら、瀕死の様相だった「麻生政権」の支持率も徐々に回復、並行して、沸騰していた「民主党への政権交代」熱も何となく冷めてきた感がある。

小沢代表秘書逮捕報道の時に、当オフィスブログでも触れた通り、この逮捕事件は、政権交代が現実のものとなる事を危惧した検察権力の「国策操作」だという一部有識者や検察OBの意見もあり、私自身も、あくまでも勝手な直感だが、その可能性が高いと感じていたが、この1ヶ月余り、上記の「流れ」を見ていると、もし、検察が本当に国民やマスコミの政権交代の「流れ」を阻止する目的で小沢代表の秘書を逮捕したとしたら、あざやかな政治的演出(作為)ではないだろうか?

「郵政民営化」を金科玉条のごとく叫びながら、時の衆議院選挙で300議席を獲得した小泉総理の演出が公衆の面前でのオープンなパフォーマンスだとしたら、今回は権力による隠れた「演出」であるだけに、かなり後味悪いものである。

 

それでも、選挙は国民の一票で決まるので、いかに「演出」が上手くても、国民さえ各自のゆるぎない視点を維持していれば問題はないのだが、その後の各社の世論調査を見ていると、やはり逮捕前と逮捕後には大きな変化が出ているのは、個人的に残念である。

小沢民主党代表の政治資金の集め方が良いのか悪いのか?その点で潔白なのかどうかは、私自身も確かに「問題なし」とは考えていないが、それと、今の政治状況や社会システムをこのままにしておく事とは別問題であると考えているだけである。

日本が戦後の復興を一応遂げた1980年以降、先進国が進めてきた力の政治や物質中心の生活の行方は、地球環境や資源問題だけでなく見直さざるを得ない時期となっているのは明白であり、昨年からのサブプライムローンに端を発した世界経済不況は起こるべくして起こった事件であり、オバマ米国大統領の誕生も同様な「必然」ではないだろうか?

 

従って、日本の政治状況に於いても、今のこの時期、このタイミングが重要なのである。

そこに、小沢一郎の政治資金問題という、あえて言えば「小さな問題」の為にこの重要なタイミングを逃すような事態になるとすれば、このことこそ重大問題ではあると思う。

 

『木を見て森を観ず!』

「それだけは止めようよ!」と言うのが私の意見である。良い喩えではないが、味噌もクソも一緒にしないで欲しいと言う事である。

そんな中で、民主党党内では、「小沢代表辞任論」が姦しいのは、いささか情けない!相手が仕組んだ策略に「まんまと嵌る」。それでは戦える集団にはならないではないか。地元の選挙民から「小沢辞任要求」が湧き上がっているから代表を変えると言うなら、自民党が福田さんから安部さん、麻生さんへと総理をコロコロ変えて来たのといささかも違わないではないのか?

森元総理から小泉さんに代わって大勝利した後の自民党内やその政治的実績を観ていれば、一時的なトップのすげ替えは単なる目先を変えるだけの話で、熱が冷めれてみれば(メッキが剥げれば)、状況は旧態依然かさらに悪くなっている事は、身近な事実として我々が知るところではないのか?

耳障りの良い言葉での「構造改革や政治改革」はもうこの辺で打ち切って、世界的に問題が山積している時期、これから日本はどんな社会を目指して行けば良いのか、世界に何を発信して行けば良いのか、それが重要であり、この段階で、単に国民受けする「代表交代」によって、政権交代を図ろうとする民主党内や一部の支持者の考えは愚かであり、どこか「本末転倒」と言えないだろうか?

「政治資金規正法問題」程度でガタつくなら、最初から小沢一郎などを代表に選ぶな!

同時に、「官僚支配政治の打倒」と言う、自民党と大きく違った政策の実現を本当にめざすなら、少々国民の批判を受けても、政権交代するまでは、自分達で良いと思って選んだ「豪腕政治家」と心中する気持ちで戦うしかないだろう!

それで負けたら、それが、現在の国民の考え方だと思って、次のチャンスに出直しを考えれば良いではないか?と私は思うのだが如何だろうか?

あのアメリカまでが、オバマ大統領を擁して変革しようとしている「政権交代必然のこの時期」に及んで、身内の中から、戦力ダウンの「代表辞任要求」で揉めているのは、敵を利するだけの情けない話だと、私は民主党議員各位に言いたいのである。

投稿者 kitamura : 15:20 | コメント (0) | トラックバック

カテゴリー:独り言 2009年04月24日

「草なぎ剛」応援歌

昨夜大きく報じられた通り、深夜の公園でSMAPのくさなぎ剛が逮捕されるという事件が起きた。

「夕刊フジ」や「ゲンダイ」などのサラリーマン向け夕刊紙などは、大事件のように一面で「公然わいせつ罪で逮捕」と大きく報じていたし、昨夜と今朝のテレビ各局でも、警察の車に収容される画像を何度も放映していた。ニュースになるのは人気者ゆえに仕方ないことだろう。

但し、CMに起用している大手企業の素早い「放送中止決定」や、地デジのメインキャラクターに起用している総務省の鳩山邦夫総務相の「最低の人間だ!絶対に許さない。」と迄言い切る、的外れに大袈裟なコメントには唖然とさせられ、正直なところ、何か可笑しくないだろうかと情けなくもなる。

大企業や政治家は、消費者や国民にそこまで「おもねる」必要があるのか?逆に言えば、そんな事で「オタオタする」人々の集まりなのか?この日本は?と薄ら寒い気がする。

勿論、都心の高級マンションに囲まれた公園で、夜中に奇声を発する事は社会人として問題はあるし、ましてや、夜中の公園とは言え、一人で全裸になって騒いでいたら、『なんばしとると、剛!』と怒鳴りたくはなるが、賛否両論あったとしても、所謂『酒の席の話」である。しかも、誰もいなくなった公園での大騒ぎ事件(行為)である。

『許しちゃんない!』

34歳と言う十分な大人ではあるが、若い内から芸能界で活躍している彼には、真面目さが「売り」の人気者ゆえの苦悩やストレスも多いのだろうし、くさなぎつよしと言うキャラクターでもって、お茶の間や映画の世界で我々に楽しみを与えてくれている訳だから、一度の「しくじり」でそんなに目くじらを立てることもないだろう!と、隠れ「くさなぎファン」の私は思うのだが、如何でしょうか?

芸能人だから、人気者だから、「深夜の公園で裸で騒ぐなどは絶対許されない!」みたいな論調の方が、現実離れをした怖い論理である。そんな論理が蔓延する社会に、逆に夢や希望は持てないのではないだろうか?昔から日本には「大人の対応」という味な対処方法があるではないか。

笑ってすます事は出来なくとも、マスコミも大企業も政治家も、そして彼らが最も気を使っている振りをしている国民の皆さんも、この程度の事には『大人の対応』と言う事が出来ませんか?日頃、真面目一途に頑張っている人気者が酒に飲まれた程度で、大騒ぎして潰さないで欲しい。

先日の「小沢一郎秘書逮捕」時にも感じた事だが、法律に触れる事柄とは言え、ちょっとした作為や報道の仕方で大騒ぎになってしまうと言う、今の日本社会の付和雷同的な「良い子ぶりっこ合戦」は、マスコミも国民もそろそろ止めましょうよ。そうでないと、我々の生活にとって本当に大切なことや貴重なものが見えなくなり、まともな判断ができない怖い社会になりませんか?

『頑張れ、剛!』

 

 

 

 

 

 

投稿者 kitamura : 12:23 | コメント (0) | トラックバック

カテゴリー:独り言 2009年04月12日

オバマの核廃絶演説に思う

先週4/5、オバマ米国大統領が、チェコのプラハで「核のない世界」の実現に向けての演説を行なったと言う。

共和党の前ブッシュ政権が象徴するように、平然と「先制攻撃」を主張し、Rpwer Politics(武力外交)を推し進めてきた、アメリカ大統領の演説内容とは信じられないような話である。この演説を聞いていると、良くも悪しくも、改めて、アメリカはすごい国だと思わざるを得ない。

この演説内容に、広島・長崎の被爆者団体が、「核廃絶に向けての二度とないチャンスの到来」と大歓迎!(asahi.com)なのは良く分かるし、民主党の岡田さんも、自身のブログ「岡田かつや TOLK-ABOUT」でも、「米国大統領が、世界で唯一の核使用国として、自国の道義的責任に言及した」と言う意味で、歴史的演説だと大きな評価をしている。

しかしながら、思いの外、日本のマスコミはこのオバマ演説を大きなニュースとして取上げていないような気がするのだが、どうなのだろうか?

先週は北朝鮮のミサイル打上げ報道で忙しかったというのかもしれないが、『小澤一郎は辞任すべきかどうか?』など一連の小澤報道や、世論調査報道に比較したら、あまりに報道のインパクトが弱いのではないかと、私には思える。ひょっとして、単なる「米国大統領の外遊先の演説」程度にしか考えていないのではないだろうか?

もっとも、フランス政府の内部文書では、このオバマ米大統領の「核廃絶宣言」を単なる海外でのイメージ戦略過ぎないと批判している、とも報じられてはいる。(毎日JP

勿論、イメージ戦略と言う面も否定は出来ないかもしれないが、それにしても、あれだけ、堂々と、政治でも経済でも「力による政策」を推し進めてきたアメリカの『大統領』が、良くぞ、あそこまで宣言したという事は大きな問題であり、驚きであった。

バラク・オバマの「We can Change」の雄叫びは、単なる選挙の票集め用のものではなく、本気で、アメリカを「武力による世界統治から、協調による世界の共生」に向けて、新しいリーダーとして「CHANGE」しようと言う真摯さが感じられる、この108度の政策転換には、多くの日本人も、今一度、若きオバマ大統領に期待してみたいと言う気がするのではないだろうか?

勿論、「これらの政策転換」には、大変な困難な現実的課題がたくさん待ち受けているだろが。。。

 

政治は現実的・具体的な結果の世界であるが、憎しみ合いや殺し合いが絶えない今の混沌とした世界では、そのリーダー国アメリカに、『強き良き理念』がなければ、どうにもならない状況となっている。

そして、この理念に基づき、オバマ大統領が具体的な行動をいち早く進めてくれるなら、たとえ、従来同様、日本はアメリカ追随国であったとしても、アジアやアラブなど、日本とに関係が深い世界各国からも、前ブッシュ政権時代とは、まったく違った評価を得られるだろう。

 

 

投稿者 kitamura : 12:00 | コメント (0) | トラックバック

カテゴリー:独り言 2009年04月08日

サムライ「松井秀樹」

今日(4/7)、アメリカン大リーグの開幕だった。開幕戦のヤンキースの四番は、日本人初の「松井秀喜」だったと報道されている。

r.jpg  ロイターから転載

その開幕4番の松井は、何度かのチャンスに凡退したが、七回ツーランホームランを放った。しかし、ヤンキースは、同じジャイアンツの上原が入団したオリオーズに10-5で敗れたようだ。

松井秀喜は、二度のWBC(ワールドベースボール)に参加しなかった、正確には参加出来なかったと言うべきかもしれない。個人主義のスターと言われたイチローがチームリーダー的役割を荷って、2度のWBCで日本を二連覇に導いた。それに比べれば、ヤンキース松井秀喜の影は薄い。今年の侍ジャパンには参加出来なくとも、王監督率いる第一回WBCには、その気になれば参加出来たのである。しかし、松井は己の意思で「参加しなかった」

その後から始まるペナントレースに最善の状態で臨みたいと言う思いが強かったのだろうと言われている。しかし、日本人一般にとって、今や、松井秀喜よりイチローの評価が数段上になっているだろうと思われる。一応ジャイアンツファンの私自身も、松井には寂しい思いがある。

しかし、松井はサムライである。

今日の新聞報道で、開幕戦ホームランを打った松井のコメントを聞いて、改めてそう思った。

ロッカールームに戻って、早速、携帯電話で長嶋終身名誉監督に開幕した事を連絡したと言う。それに対してのコメントは、『僕が活躍することを、監督が一番喜んでくれる。それが恩返しだと思います』

松井秀樹自身が、WBCに二度も参加出来ず、日本中が湧いたその時にどんな気持ちでいたかは、勿論、私には分からない。案外、特別な思いはなく、一般の野球ファンと同じレベルで喜んだのかもしれない。しかし、上記のようなコメントを聞くと、松井秀喜をしても、ひょっとして、WBC不参加の寂しさがあるとして、だからこそ余計に、自分の事を本当に思ってくれる人(長嶋監督)がいることが、すごく嬉しいんだろうし、アメリカで野球を続ける松井自身の大きな支えになっているんだろうと思う。

今年の原監督率いる「侍ジャパン」に参加できなくても、その心は、やはり、松井秀樹はサムライだと思いたい。それは、松井自身が2009年のMLB(アメリカン大リーグ)で、いかほどの成績を残して、それこそ、松井を応援してくれる日本の野球ファンに恩返しすると同時に、『サムライ松井秀喜ここにあり』を証明するしかないだろう!

そして、いつの日かのWBCにて、日本人に「松井秀喜」の存在感をアピールして欲しいものである。

 

投稿者 kitamura : 01:25 | コメント (0) | トラックバック

カテゴリー:独り言 2009年02月11日

競争社会の終焉と共生

私事だが、何十年振りかでNHKの大河ドラマを毎週楽しみに観ている

上杉家の名宰相と謂われた米沢藩の戦国武将「直江兼続」のドラマである。政治や経済が迷走している今年の大河ドラマとしては、真の改革派執政官として大変的を得た人物のドラマである。

ところで、話は変わるが、最近の非正規労働者の失業問題に代表される貧困問題は、単に格差社会の「負け組」と言うことでは済まされない緊急課題ではある。その一方で、今回の世界的金融不況は、数年前では、「勝ち組」として異常な程の高額報酬を得ていた外資系企業の社員や金融関係者などにも大きな打撃となっている。

本来なら、報酬額も生活圏も両極端な階層が、今回のアメリカ発の金融商品の破綻により、同じように大きな被害を被ったのは、実体経済の担い手である国内の自動車や電機関連の大手企業も、所詮、金融バブルで膨らんだ不確かな海外マーケットのお陰で業績を伸ばしてきたことを示している。

しかしながら、「新自由主意」の名のもとに、バブリーな経済システムを生み出してきた確信犯とも言える、新自由経済推進層が被害に合うのは自業自得と言って良いが、限られた働き口の非正規労働者や外国からの労働者が、急な解雇や契約打ち切りを言い渡される現状は納得しがたいものがる。

2005年、異常な人気を博して日本国民をお祭り気分にさせながら「郵政民営化」などの構造改革を推進してきた小泉純一郎元総理は、国会で格差問題について追求された時、『自由経済のもとでは、少々の格差はあってしかるべし!』と発言をしていたが、小泉さん言うところの「少々の格差」などは、いかなる時代にもあった訳であり、市場原理主義に基づく構造改革を進めたい「小泉-竹中ライン」は馬鹿じゃないから、現在のような、アメリカ並みの「大きな格差」が生まれるだろう事は十分承知の上と言うか、本当は、それがネライだったのかもしれないと思われる。

何故なら、彼らは、自由市場の中でさらに大きな収益を期待する(異常な格差を是とする)支持層を地盤にしていたからだと言う事になる。残念ながら、政治とは最後は現実的な利害打算の戦いのようだから、「小泉-竹中ライン」が、どんな支持層が好む政策を実現しても自由ではあるが。。。

残念なのは、郵政民営化解散で、国民の大多数が熱に浮かされたように小泉改革を支持したのかと言う事である。私には今も納得できない。勿論、官僚の天下りや脱利権政治などの改革には私も多いに期待していたが、小泉-竹中改革派の主張は、どこか胡散臭いところがあり、コツコツと郵便貯金を積み立てて来た国民の多くにとってプラスになる改革とは思えなかったので、当オフィスブログでも、あえて政治テーマの「小泉改革に対する疑問」として何度か取上げてきた。

今は、あの当時の胡散臭さがどこから来ていたのか、その後、色々な専門家の言説に接するにつれ、私も以前よりよく分かるが、要するに、アメリカが願望する「規制緩和」に添って、外資企業でも自由に参加出来るグローバルマーケットに開放しようと言うことだろうが、そのような新自由主義の恩恵を一番受けるのは、当然ながら、グローバルマーケットで勝負できる大企業や、潤沢な資産を規制なき金融商品として活かせる一握りの富裕層なのであり、逆に、その被害を一番被るのは、日本の法的なガードを外された弱い国内企業であり、競争社会では「負け組」となってしまった、便利で安い労働力の担い手であったと言う事である。

ところで、私が思うに、人生の最大の目標が、他人に勝つことであり、戦後の復興期のままに「どこまでも物質的な豊かさを求め続ける」ことであれば、この競争社会は終わることなく続くだろうと思われる。

人生の意義を、生きる楽しみを、お金や物質以外の「何か」に求めることが出来なければ、国民は物質的な豊かさや、さらなる便利さを求め続け、国家はその為に他国の経済市場も当てにした経済拡大政策を推進して行くだろう。

地球資源は有限であるのだから、人間の欲望だけを無限に拡大してして行くビジネスモデルが永遠に続くことはありえない訳である。だとすれば、100年に一度と言う今回の世界的不況は、何世紀も続いてきた、科学技術をベースとした人間の欲望の物質化とも言える「豊かな生活」を、そろそ方向転換(質的変換)すべき時期にきている事を教えてくれているのではないだろうか?

そして、何世紀もの間我々を支配してきた文明の発達とか進歩も、今一度再検証してみる必要がありそうだ。

論語に【温故知新】という言葉がある。

歴史や先人の思想などを学んで、新しい知識や発見を得るという事で、孔子が「師となる条件として述べた言葉」だと語源由来辞典には説明されている。紀元前にすら、孔子は『師たるもの昔に学べ!』と説いているのである。それから2千年以上も進歩を遂げてきた現代文明は、一度立ち止まって再考すべき時期だろう。

孔子の教えに習って、日本の政界や経済界のリーダーも、

『時代を見直す、歴史や文化を見直す、田舎や自然を見直す、精神的豊かさを見直す』ことを、もっと真剣に考えることが大切ではないか。そ

その中から、個人の生甲斐や、ビジネスモデルも含めて、競争社会から新しい共生へのロードマップが見えてくるだろうと思う。

投稿者 kitamura : 19:00 | コメント (0) | トラックバック

カテゴリー:独り言 2009年01月31日

気侭に、スピリチュアル遊泳

子供の頃、将来自分が死ぬことに対して、無茶苦茶恐ろしいと言うか、考えるだけでスゴイ恐怖だった。一度死んだら、未来永劫、永久に「私は消えたまま」になると言う事を考える度に、どうしょうもなく空恐ろしかったものである。

その後、 成人して以降、死ぬのは嫌だという思いは、当然ながら常にあるが、子供の頃のような、どうしょうもなく恐ろしと言う感じはしなくなった。

それが、中年期になって、独立して自分で商売を始めて以降、仕事が順調な時も不調なときも色々だから、安陪さんや福田さんでなくとも、時には仕事を投げ出したくなるのだが、我々のような小さな企業では、仕事をほっぽり投げられる時とは「死ぬとき」以外にないと言う思いもある。

昔の武士が腹を切って、「死んでお詫びをする」と言うように、社会と複雑な繋がりを持って仕事をしている中小企業の経営者は、死ぬ以外に仕事を放り投げて苦界から抜け出す道はないだと言う気もする。(安陪さんや福田さんを見ていると、総理大臣という役職は簡単に取って代れる仕事と言う事になるが?)

そうなると、子供時代のような「死ぬことの空恐ろしさ」とは逆に、死に対して妙な親和性を感じるものである。畢竟、年を取るとはこのような気持ちになることなのだろうか?科学的(医学的?)には、これは生物としての「生きる」活力と言うかエネルギーの衰退と言うことだろう。逆に言えば、子供の頃、「死がすごく恐い」のは、生のエネルギーに満ち溢れているからと言う事である。

その一方で、長く生きていると、自分の可能性や限界が分かってくるから、ここまで頑張ったのだから、もう良いだろう!と言う、我が人生への諦めがつくということもある。大往生とは、自分のエネルギーをとことん使い果たして、「空っぽ」になってこの世におさらばする事jなのだ。だから、未練を残したまま死んではいけないと言う事であり、しぶとく生き永らえた後に、往生がやってくると言う事なのだろう。

休日前夜、ゆっくり風呂に浸かっていて、ふと気が付いたら、そんな思いに耽っていた!

 

 

投稿者 kitamura : 00:20 | コメント (0) | トラックバック

カテゴリー:独り言 2008年11月24日

人生は「居場所探し」と見つけたり!

信長の頃は人生50年と言われていたようだが、男女とも平均寿命が80歳を超えた現代日本では、まさに、人生は長距離戦である。こうなると、定年退職後20年以上の期間を含めて、自分の人生をどう活かすかは重要な問題である。

60代以降になると、若い頃と違って、徐々に、夢や希望、或いは生きるテーマ(課題)が見えなくなってきて、社会にも家庭にも「自分の居場所がない!」と言う寂しい事態も予想される。 それでも、女性はアンチエイジングへの興味や、仲間との集いなど、色々工夫しながら人生後半を上手く生き抜く人が多いが、男の場合は、なかなかそうは行かない。

起業家向けシェアオフィス、レンタル会議室、さらに、女性向けシェアサロン等の企画運営を、SO!のビジネスとして以来、若い世代や女性との関わりが多くなった為か、私自身、『気がお若いですね!』と言って頂けることが結構多いが、世の中にも、同世代ながら印象が10歳くらい違う人々は多い。それが何に因るのか?連休最後の寒い一日、自宅にてそんなことを考えてみた。

 

気持ちが若い事が必ずしも自慢すべきことではないが、中高年になって、上手く自分の居場所を確保出来ている人は、気が若いというか、元気な人が多いように思う。だとしたら、年齢を重ねながら、如何にして自分の居場所を築いて行くかと言う事が重要になる。

私が思うには、それは、我侭に生きると言うことである。

嫌いな人とは出来るだけ付き合わない。好きなことや興味がある事には積極的に関わっていく。仕事は好きになれるようなやり方を見つけながらやる。どうしても好きになれない仕事ならキッパリ辞める。などなどである。

 

突然だが、私のおふくろは62歳で亡くなった。

なくなる数年前から、「この世は賽の河原だね!」と独り言のように何度も口にしていた。「毎日の生活が同じことの繰り返しだ」と言う意味であるが、当時、高校生で自宅に居た私は、そんなおふくろの独り言をよく聞かされていた。

一家の主婦として、60年生きてきてみると、世の中はそんなに楽しいことや面白いことで満たされている訳ではないと言う、庶民の実感と言うか「悟り」のように感じたが、その一方で、60歳にして、すでにそのような境地に至ったおふくろの気持ちが悲しい気もした。

その後、私自身も徐々に歳を重ねる中で、ふと、何かを我慢して生きる生き方に疑問を感じるようになり、我侭な生き方とか、常識に囚われない自由な発想を愉しむ大切さを考えるようになった。亡くなったお袋が、身を以って教えてくれたのかもしれない。

自己を犠牲にしながら家族の為にと言う生き方は大変立派であるが、その結果、老後になって、「人生面白くない!」とか、「自分には居場所がない!」と嘆かざるを得ない事態になっても、誰の責任にも出来ない。 人生が長距離戦となった現代、個々の人生は連続していると言うことであり、どんなスタートを切って、途中でどんな走りをして、最後に、グランドでどのように迎えられるかは、ひと繋がりのものとして、すべて自分で引き受けなければならないのである。

 

40代後半に読んだ作家の宇野千代さんのエッセイの中に、『青春とは年齢の事ではなく、夢や希望を抱いている時が青春である。』と言う意味の文章があたが、私はこの言葉が大変好きで、これからやってくる50代こそ、わくわくドキドキする事との出会いを見つけていきたいと願ったものである。

 その対象が、家族だったり、仕事だったり、社会や地域への貢献だったり、もっと生々しく、異性であったり、お金であったり、社会的地位や名誉だったり、人それぞれではあろうが、私自身は、取りあえず、我慢しないで、その時々の自分の気持ちに正直になろうと決心したのである。

その結果が、転職であったり、独立して起業する選択であったり、現在の「SO!」のビジネスへの移行であったりと言う事である。あちこちダッチロールしながらの飛行ではあったが、最近は、誰の導きかは分からないが、今の仕事は「やっと辿り着いた良縁かな?」と言う気がしている。

同時に、自分だけの夢や希望は、自分の能力や年齢などの諸条件の中で、頭打ちになったり、ネタ切れになる場合があるが、誰かの役に立ったり、いくらかでも社会に貢献出来る仕事は、不思議に、周囲から、新たな夢や希望のチャンスがもたらされるようだと勝手な思いもある。

人は、自分で後悔することがないように、自分の好きなことを我がままに選択してきて、「最後の居場所」が必要になった時に、「縁ある人々」の役に立ったり、少しでも社会に貢献出来るなら、そんな有難いことはない。

但し、SO!のビジネスが、本当に社会に役立つ仕事かどうか?それは、今後のSO!の成り行きが証明してくれるだろう。

 

 

投稿者 kitamura : 17:03 | コメント (0) | トラックバック

カテゴリー:独り言 2008年11月10日

私のスピリチュアル世界

休日の独り言である

昨日の日曜日は、SO!Oomoriのオフィスの内覧申込みが入ったので、大森オフィスの案内に出かけてきたが、どういう訳か、何の連絡もないまま内覧希望者はいらっしゃらなかった。

休日にその為に出勤した事を考えれば、正直迷惑な話ではあるのだが、物は考えようと思えば、その方とは「縁」がなかったと言う事になる。又、お陰で、SO!Oomoriの入居者から、ゆっくりお仕事の話が聞けたのは良しと言うことである。昨日はそういう星の巡り合わせの一日だったのだろう。

ところで、「縁」と言う言葉は、子供の頃に、お寺のお坊さんの話の中によく出てきたが、元々は、仏教世界やスピリチュアルな世界の用語なのだろう。テレビ番組の「オーラの泉」なんかでも、スピリチュアルカウンセラーの江原さんからも、「ご縁」とか「学び」と言う言葉が何度も出てくる。

私は、スピリチュアルな世界に詳しいわけではないが、この「人生は学びである」と言う考え方はなかなか面白いと思う。例えば、人生まったくついていないと嘆く人が居る。病気はするは、仕事は上手く行かないは、彼女(彼氏)にも振られるは、と不幸ばかり続く人。一方で、生まれてから大した問題もなくずっと順調だと言う人もいる。

しかし、苦しいこと、悲しいこと、楽しい事、幸運なことなど、これらの世俗的なプラスマイナスも、江原さん流に、『すべて、あなたの為の「学び」なんですよ!』と思う事が出来れば、確かに、その方が精神衛生上は良い。今、大変なのは、自分にとって「必要な学び」の時期なんだと思って辛抱しながら前向きに生きられるし、逆に、調子が良いときも有頂天にならないよう、ブレーキが効くということである。

一流大学を出て大手企業に入社し、順調に昇進して行った人は、世間的には大変幸運な人となるが、そのままの順調さで寿命を全う出来るかどうかは解らない。安定したサラリーマン生活を長く続けていたことで、逆に、その後(退職後)の起業や、セカンドライフに於いて、小回りがきかないとか、プライドが邪魔して新たな仕事にチャレンジ出来ないと言う事もまま起こる。「苦しい学び」の時期が後にやってきたと言うことになるのか。

そうかと思えば、若いうちには仕事や家庭に恵まれず、苦労ばかりだった人が、老年期になって、順調な日々が廻ってくると言う場合もあるだろう。この場合は、年取ってから「愉しい学び」がやって来たと言う事になるのだろう。

勿論、スピリチュアル世界の話だから、その収支が現世だけではプラマイ「ゼロ」にはなりませんよ!と言う事もあるのだろうが、個々の寿命の中で、いつ、苦しい学びが来て、愉しい学びは来るのか来ないのか、我々凡人には予想がつかないので、取りあえず、何事も「必要な学び」だと思って前向きに対応して行くしかない訳である。

考えてみると、これはなかなか「世渡り上手な生き方」と言う事にならないだろうか?

親兄弟や家族も、友達も、出会う男女も、恩師や会社の同僚も、さらには、生まれた地域も、仕事も、苦楽も、すべて、我々一人一人の学びの為であり、生きると言う事は、その各自の土俵の中で、どんな相撲を取るかだと考えれば、『重き荷を背負いて坂道を登るがごとし』と言う人生も、少しは楽になる様な気がしてくる。

 

だとすれば、スピリチュアルな世界とは、「縁」とか「学び」に象徴されるように、ある意味では、世渡り上手な方便と言っても良いのかもしれない! 

予定が狂った休日の一日、ふと、そんな事を考えてみた。

 

 

 

投稿者 kitamura : 18:40 | コメント (0) | トラックバック

カテゴリー:独り言 2008年10月03日

振り込め詐欺について

随分前から何度もマスコミで報道されてきたから、そろそろ騙される人が減ってきて下火になってきたのかと思っていた「振り込め詐欺」とか、「オレオレ詐欺」が、下火どころか益々被害総額が増えてきているようで、2008年の1~4月の被害総額は全国で112億円となり、警察庁は、今月10月を「振り込め詐欺」の対策強化月間にしたとの事である。

我が家にも何度か、息子を装って、その手の電話があったようである。勿論、被害はないが、先日は、私が自宅にいた時に、『佐川急便ですが、、、○○さんいらっしゃいますか?』と言う電話があり、息子宛の荷物が届いたが法律が変わってご本人しか受取れないと説明をしながら、息子のこと(?)を色々聞き出したい様子であった。『そんな法律が出来たとは聞いていないけど、あんた本当に佐川急便の人?』と、強く言ったらその場で電話が切れた。

まあ、我が家のことは兎も角、この手の詐欺の被害者は年配の方と言うか、おじいちゃん、おばあちゃんが多いのだろう。いくら緊急を装っても、何百万とか何千万円のお金を十分確認もせずに銀行振込みしたり、銀行振込金額に限度が設定されると、『バイク便のおにいさんに受け取りに行ってもらうから現金で渡して欲しい』と言われ、取りにきたバイク便の人に何百万円もの現金を手渡しすると言う事は、普通では考えられない話である。

このような被害の報道を聞く度に、老人は何で簡単にお金を振り込むのかと、或いは、とんでもない愚かな金持ちが居るもんだとか、馬鹿らしくなったり情けなくなったりするが、先日、娘の結婚式を終えた今、その心理が私にも少し分かる気がする。娘に嫁がれた父親の「よく分からない寂しさ」とは、よく考えれば、父親としての自分の役目が終わってしまった「寂しさ」なのではないかと思える。

そう考えると、おじいちゃんやおばあちゃんが、この手の詐欺にいとも簡単に引っかかると言うのも、親馬鹿とか、孫可愛さの為に判断力を失くしたとかの理由より、むしろ、突然かかって来た息子や孫の「緊急事態」に、久し振りに「自分の出番」が来たという思い(=嬉しさ)の方が大きいからではないかと思う。

若くてもそうなのだが、社会の活躍の場が急激に減ってくるお年寄りは、生甲斐を見出すという意味で、若い世代以上に自分の活躍の場は貴重であり重要なのである。従って、突然、かかってきた不自然な電話に対しても、「これはどこか変だぞ!」と薄々気付きながらでも、役者の晴れ舞台のように、自分を頼ってきた息子や孫に応えてあげたいと言う心理が働くのだろうと思う。

岸田秀風に言えば、本能を失くしてしまった人間は、生きる意味(物語)を自分で生み出して行かなければならないと言うから、我々は、老いも若きも、男も女も、人間として生きている限り、他人から頼れてたり、喜ばれたりしながら、「自分が必要な存在」で居続けなければならない。時には騙される事が解っていてもである。 役目を終えたと意識させられた父親の心が急激に寂しくなるのも同様であろう。

 

 

 

 

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カテゴリー:独り言 2008年02月03日

日本の原風景と美しさ、そしてSO!

昨夜、自宅で1972年制作の熊井啓監督作品「忍ぶ川」 (三浦哲郎の同名小説、東宝映画)を観た。

40年近く前の東京の木場や、栃木の寒村の風景、その中で出会う加藤剛と栗原小巻演じる主人公達が、人も物も一緒になって、『日本の原風景』を表現していると言う感じですごく感動的であった。

 

特に、寒村の雪景色に溶け込んだ、ヒロインの栗原小巻は美しかった! スタイルや外観が随分綺麗になってきた最近の若い女性たちとは、又、次元が違う美しさであった。

   2008.2.3 雪の朝.JPG  我が家からみた、今朝の冬景色

そんな古い作品を観て感傷にひたりながら眠りについて、今朝目を覚ましたら、我が家の窓の外は、まさに、昨夜の映画の中の1シーンのような雪景色になっていた。

 

まあ、我が家の雪景色は兎も角、何度も当オフィスブログの中で触れて来た通り、丁度一年前に、ちょっとしたきっかけで時代小説に嵌り出したが、その影響なのか、昨年後半からは、映画もアメリカ映画にはほとんど興味がなくなり、韓国や中国の作品を飛び越えて、最近の邦画や、「忍ぶ川」のような古い日本映画に興味が移ってしまって、自分ながら不思議ではある。

私自身、どちらかと言えば、田舎とか古き日本等からは、かなり距離を置いて生きてきた世代であり、個人的にも、30代~40代には、時代小説も日本映画もまったくと言っていい程興味がなかったのである。従って、最近のこの傾向は、単に歳をとった為かもしれないのであるが、どうも、何か必然性があったとか、何かの「縁」があったと考える方が自然なようでもある。兎も角、不思議ではある。

 

何かの「縁」と言えば、今月末で、閉鎖し移転する「SO!Shibashi02」の新たな移転先は、汐留地区西端の新橋駅近くで、中央通りと新幹線線路が交差する場所に位置する、昭和30年代竣工の古いビルである。(駅の近くの立地で、近くには人材と情報の大手企業や、某テレビ局のオフィスもある場所だが、当ビルの外観や新幹線の側と言う点で、一部の方々には事前評価は高くない。)

SO!汐留.jpg     SO!汐留付近.jpg

 

場所的には、『SO!SHIODOME』としたいが、以前からのSO!江戸長屋論の更なる実現をめざし、従来までのシェアオフィス機能だけではなく、江戸長屋の粋や人情を、平成の今に蘇らせたいとの思いで、

色々な人が気楽に集えるビジネス長屋、「SO!Nagaya SHIODOME」と言うネーミングにした

 

ところで、この江戸長屋論との出会いも、SO!をスタートした4年前の、友達の何気ない一言、 「SO!の良さは長屋的共同体だね!」から始まり、今回の「SO!Nagaya」に繋がって来た。 

事前の評価は別にしても、私自身は、時代小説や昭和30年時代の日本映画との出会いと同じく、ここに行き着くべき何かの「縁」が取り持ってくれている気がして、大きな期待を持っているのである。

 

 

投稿者 kitamura : 14:06 | コメント (0) | トラックバック

カテゴリー:独り言 2007年11月03日

SO!の憂鬱と占い師のおばちゃん

久し振りと言うか、SO!オフィスブログも10日振りのエントリーである。

この1~2ヶ月、シェアオフィスやシェアサロンなど、SO!の仕事絡みでは色々な未経験ゾーンの出来事が続き、自称、楽天家の我輩も、いささか憂鬱ではあったのだが、その未経験ゾーンも、結果は兎も角、愈々、終盤に差し掛かって来たようなので、久し振りにブログ記事を投稿してみた。

 

5年前の5月、四谷から新橋に当社オフィスを移転し、SO!のビジネスを本格的にスタートして2年程経った頃、仕事帰りに、いつもの友達と酒を飲み気分良く新橋駅に向かっていた夜、烏森通り沿いの道端で店を開いていた「占い師のおばちゃん」(と言っても、私よりは若い女性なんだが)に、酔ったついでで、手相を観てもらった。

『貴方、不動産の仕事に向いているわよ!』と、のっけから予想外の言葉。

それまで、シェアオフィスを4ヶ所程度運営していたが、まったく自分の仕事を「不動産業」とは意識していなかった私としては、「へへっ~、そうなんだ!」なんて意外な感じだったのだが、良く考えれば、SO!の企画運営は、シェアオフィスや貸し会議室など、施設ビジネスには違いないのだから、不動産業と言えばその通りなのかもしれないのである。

そんなご縁で、時々、友達と飲んで気分が良いときには、その駅前の占い師の女性のところで立ち止まって手相を観てもらっていたが、今年の8月頃立寄った時に、『今年の後半、11月頃、あまり良くないことがあるわね。』と言われたが、日頃から、自分自身、そんなに良い運勢を持っているとは思っていないので、その時は、あまり気にもしないで、いつもの調子で、「それじゃ、又来ます!」と、笑顔でその場を離れたのだが、確かに、この秋口から、SO!には思い掛けない色々な難事が続いている。

『当たるも八卦、当たらぬも八卦』と言うが、薄暗い街頭で手相や人相を観るだけで、こういう事が見えるのだろうかと、不思議である。

 

昨夜も飲んで帰ったので、『SO!今後でも観てもらおうか?』と考えながら、新橋駅前で、そのおばちゃんのお店(?)を探したのだが、いつもの場所は、道路脇のビルが工事現場となっているようで工事用塀で囲い込まれていた。

あ~あっ、なんてこった!

新橋界隈のビル再開発ラッシュは、馴染みの占いのおばちゃんの仕事場にも進出していたのである。

兎も角、頼みのおばちゃんが居なくなったと言う事は、 『後は、自分で始末しなさい!』、と、おばちゃんがどこかで励ましてくれているのだろう。そういえば、『この時期を乗り越えれば、また、良い運勢になる』と、そのおばちゃんが話していたよと、飲み相棒は言っていた。

SO!の憂鬱が治まる頃、また新橋駅前に、おばちゃんの占い店が戻ってくるかもしれない。

 

 

投稿者 kitamura : 16:02 | コメント (0) | トラックバック

カテゴリー:独り言 2007年09月06日

適材適所ということ

先日、内閣改造が行われ、第二次安倍政権がスタートした。

我々にはよく判らないが、なんだかんだと言っても、政治家にとって『大臣の椅子』は相当魅力的らしい。大臣としての仕事のやり甲斐か、或いは、地元選挙民へのアピールなのか、選挙向けの知名度アップか、それとも、所謂権力欲なのか、各々の大臣によってその心の中はマチマチだろう。 実態は兎も角、大臣を選ぶ安倍首相から言えば、「適材適所」ということになるのであろう。

私の個人的な話だが、長いサラリーマン生活を通して人事部に配属された事はない。部署内に関わる「人事の仕事」程度の経験ではあるが、私なりに『人事の醍醐味』はやはり適材適所に人を配置する事だと考えている。

それが何故重要なのかと言えば、現役の人事担当者なら、恐らく、「適材を適所に配置しその部門の業績を向上させること」だと言うだろうと思う。企業活動の目的は、あくまでも各部署の業績アップだからである。

しかしながら、

私は「適材適所の重要性」とは、その人を活かすことだと考えている。

当然ながら、その人を活かすことが出来れば、当然、業績も上がるはずではあるが目的は「人を活かす」ことである。どこが違うのかと言えば、業績を上げる為の適材適所には、良かれと思ったその人がダメなら、別の人に代替すれば良いということになるが、人を活かすとは、その人の性格や能力が一番生きる場を与えることであり、業績はその結果に過ぎないのである。組織や社会が、さらにさらにと、有能は人材ばかり追いかけて行くと、俗に言う「負け組」の出番は益々減ってきて、益々「格差」が顕著な組織や社会になってきてしまうのである。

障害はハンデキャップではなく個性の違いである。

と言う意味のことを障害者自身が話されているのを聞いいたことがあるが、ビジネスにおいても、適材適所とは色んな個性を色んな場面で活かすように配置する事であって、結果を生み出せる人材をを集める事ではない。

これは、「SO!」も関わっている施設ビジネスの場にも適応する話だと思う。

『ロケーションは良く、築年数は若く、設備も良く、さらに外観も良い』などと言うオフィスビルや建物に「SO!」が、シェアオフィスやシェアサロンを作ったらどうだろうか?そんな条件のオフィスビルは、最近急速に高まってきた「貸し手市場」の環境の中では、とても高額なオフィスになるだけでなく、『SO!はSO!だから』と、気に入って頂いている方々には、『SO!の面白みがなくて詰まらない!』と言う事にならないだろうか。

だれがマネージメントしても、誰が企画しても評価される人材や建物(空間)は、コスト高になるだけでなく、適材適所と言うダイナミズムがまったく働いていない。

私は、一般常識的な評価では、注目されたり評価されない人や空間を、適所に配置(創造)する事で活かす(生き返らせる)ことが、「適材適所の醍醐味であり面白さ」であると思っている。例え、それが世間で評判の良い「人材や施設」に比して、結果的に低い評価を得たとしても、それはそれで構わないのである。

絶対評価の人や物など在り得ないし、それを追い求めるのは意味がない。それぞれの個性が発揮され、それを評価してくれる誰かがいれば満足である。

近頃、高校時代に覚えた「方丈記」の一節が、時に口について出てくるので、先日、初めて「方丈記」を買ってみた。

『行くく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と住処と、またかくのごとし』

人生に究極の形とか最終到着点などなく、我々は、所詮、「過程の形」を追い求めて行くしかないということだと思う。

だから、私も、人も空間も本来の適材適所の精神で生かしてみたいし、自分自身も適所で活かされたいと願っている。 

 

 

 

 

 

 

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カテゴリー:独り言 2007年07月13日

「縁」と言うこと

以前のブログでも何度か触れてきたが、最近、仕事を通して人や物との「縁」を感じる事が多くなった。

年齢を重ねて、「縁」ということを意識することが多くなったとか、或いは、施設ビジネスに関わる今の仕事柄、初めて「会う人」も多く、「縁」を意識することが多いのかもしれないが、以前は、長い間、人と関わる営業の仕事をしていたが、人や物との「縁」を意識したことはこんなにあまりなかった。

 

最近、人気のテレビ番組「オーラの泉」などの影響もあり、世間一般でもスピリチュアルな世界が身近なこととなっているようだが、このブームの前でも、年長者や女性から頂くメールなどでは、「・・・のご縁で」とか「これも何かのご縁でしょうから云々」と言う風に、「縁」と言う言葉に、それこそ、縁がなかった訳ではない。

施設ビジネスにおいて「縁」とは、「仕事を追いかける形」ではなく、「向こうからやってくるのを待つ形」の中で意識する事が多いのは確かである。 自分の方から動いて、仕事や顧客を追いかけている時には、「縁」がどうのこうのと考える事はなく、一方、「お客様を待つ」形の仕事になると、それこそ、「色々な施設の中からSO!を選んで頂いたのは、何かご縁があるのだとう!」と言う気に自然となるものである。

それはSO!を利用して頂くお客様だけでなく、SO!企画して創り出す過程における、色々な人や物(場所や建物などの地縁)との出会いでもそうである。

 

そこで、改めて「縁とは一体なんだろう?」と考えてみると、 『袖擦り合うも他生の縁』という言葉もある様に、縁とは前世や今生での「結びつき」とか「繋がり」と言う事だろうと思われる。

長く付き合った後に分かれた男女に、「それはお互い、縁がなかったんだよ!」等と言って慰める事が多いが、換言すれば、「お互いが結びつく必然性(縁)がない」と言うことである。縁がないと言われると、妙に納得してしまうから不思議である。

 

現在の地球上には65億人以上もの人間がいるとして、人は一生のうちで一体何人と「縁」があるものかはよく分からないが、日々の出会いから考えると、少なくとも、何百、何千の「縁」はある気がする。但し、多くの人は、家族や友人や仕事仲間を含めても、自分の縁を充分生かし切れないまま人生を終えているのではないだろうか。

多くの身の回りの「縁」を大切にして行くことで、「自分とは何者か?」とか、「自分の天職とは何か?」などが徐々に分かってくる気がする。『水、高きから低きに流れる!』と言う具合に、自分の周りに集まってきた「人や物との縁」が自然に、自分とはなんぞや?と言う事を教えてくれるのである。

そう言う意味で、、我々は日々出会う人や物や場所との繋がりを軽々にやり過ごす事なく、その中から自分の「縁」を感じ育てて行く事が、生きる楽しさにも自己発見にも通じるのだと私は思っている。

 

あなたも一度、「自分の縁」について考えてみると面白いと思う!

 

 

 

投稿者 kitamura : 13:27 | コメント (0) | トラックバック