| カテゴリー:独り言 | 2009年01月31日 |
気侭に、スピリチュアル遊泳
子供の頃、将来自分が死ぬことに対して、無茶苦茶恐ろしいと言うか、考えるだけでスゴイ恐怖だった。一度死んだら、未来永劫、永久に「私は消えたまま」になると言う事を考える度に、どうしょうもなく空恐ろしかったものである。
その後、 成人して以降、死ぬのは嫌だという思いは、当然ながら常にあるが、子供の頃のような、どうしょうもなく恐ろしと言う感じはしなくなった。
それが、中年期になって、独立して自分で商売を始めて以降、仕事が順調な時も不調なときも色々だから、安陪さんや福田さんでなくとも、時には仕事を投げ出したくなるのだが、我々のような小さな企業では、仕事をほっぽり投げられる時とは「死ぬとき」以外にないと言う思いもある。
昔の武士が腹を切って、「死んでお詫びをする」と言うように、社会と複雑な繋がりを持って仕事をしている中小企業の経営者は、死ぬ以外に仕事を放り投げて苦界から抜け出す道はないだと言う気もする。(安陪さんや福田さんを見ていると、総理大臣という役職は簡単に取って代れる仕事と言う事になるが?)
そうなると、子供時代のような「死ぬことの空恐ろしさ」とは逆に、死に対して妙な親和性を感じるものである。畢竟、年を取るとはこのような気持ちになることなのだろうか?科学的(医学的?)には、これは生物としての「生きる」活力と言うかエネルギーの衰退と言うことだろう。逆に言えば、子供の頃、「死がすごく恐い」のは、生のエネルギーに満ち溢れているからと言う事である。
その一方で、長く生きていると、自分の可能性や限界が分かってくるから、ここまで頑張ったのだから、もう良いだろう!と言う、我が人生への諦めがつくということもある。大往生とは、自分のエネルギーをとことん使い果たして、「空っぽ」になってこの世におさらばする事jなのだ。だから、未練を残したまま死んではいけないと言う事であり、しぶとく生き永らえた後に、往生がやってくると言う事なのだろう。
休日前夜、ゆっくり風呂に浸かっていて、ふと気が付いたら、そんな思いに耽っていた!
投稿者 kitamura : 2009年01月31日 00:20
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