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カテゴリー:共生 2008年07月16日

シェアな生き方「長屋族」

異業種交流会と言うものがある。文字通り、業種の違う人々が交流しながら各々のビジネスに効果的な人脈を作ろうとする会合である。

『SO!は居ながら異業種交流が出来るオフィス』などとアピールしてきたが、どうも、『交流会』と言うと、ビジネス交流会でも趣味の集いでも、そこに参加すると何か具体的な成果が得られると言う期待がある。

しかしながら、現実には、人の人の関係や出会いは、具体的な成果に結びつくケースは少ない。しかしながら、他人と話し、接することで、新しい元気や刺激を貰う事は結構多いのだと、多くの人々と接しながら思う。丁度、我々が子供の頃、、無邪気にお互いの元気をシェアしていたように。

ビジネスも暮らしも一人では立ちゆかないから、得意先や友達を大切にしているが、仕事にプラスだから、親しい友達だから大事にすると言うのではなく、偶然にも同じ時代に生きて、かつ、何かの縁で繋がりが出来ると言う事は、それが利益を生むかどうかに関係なく、本来は、出会うことで双方が何かの刺激や感動を得られるハズなのである。

出会う前まで各々違う境遇で生きてきた者同士が何かの縁で出会うと言うことは、その事だけでもワクワクする楽しいことなのである。

しかし、残念ながら、知らぬ間にどこかで、人と人の出会いや触れ合いが経済原理に組み込まれ、打算的なもの、成果主義的なものに変わってきてしまったようである。

生き方、働き方、人繋がりすべてに於いて、物質的な豊かさを求めて競争に明け暮れてきた結果、我々が到達したのは豊かな都会の中の「精神的な荒廃」だと言っても、昨今の想像外の犯罪や、格差社会問題を見ていると、けっして大袈裟ではない。。それは、生きる愉しさを、「経済的に豊かになる」という事だけに全面依拠してきた結果だろうと思う。

換言すれば、生きる意味が、経済的な代用特性(社会的地位やお金など)で評価されることが普通になってしまった結果、人と人が出会い、語り、触れ合うことは、それ自体ではたいして楽しい事ではなく、代用特性実現の為の、単なる手段となってしまったかのようである。

人間付き合いは色々面倒だが、ペットは可愛いとか、癒されるとか、物(お金)は裏切らないと平然と言う人が増えてきたのが、これを物語っている。

赤ん坊や子供時代に誰もが持っていた、人と接する時の「生き生きとした表情」を大人はいつどこに置いてきてしまったのか?

●シンプルに、人と出会い、話し、触れあう、それ自体が大きな「生きる愉しみ」であり、人生のダイナミズムである言う方向に、今一度戻る事はできないものか?

●地位や名誉やお金や年齢や性別に関係なく、人と人が自在に触れ合える愉しさを味わえる所はないのか? 

●仕事でも日々の暮らしでも、人と話しているだけで楽しい、元気になる、新たな力が湧いてくるという、生き方や仕事の仕方は何故無理なのか?

人と人が出会い、語り、触れ合い、時に恋もする、そんな生のダイナミズムが復活出来れば、人生の目的が、大金に埋もれる事でも、豪邸や高級車を持つことでもなく、人との共生だと、我々は再確認できるのではないだろうか?

最近の大きな社会問題である、20代で年収数千万の若者が居る一方で、年収200万円以下の人々が1,000万人以上と言う超格差社会同世代でのこんな収入差が何故費必要なのか、貴方は説明出来ますか?)、急激に進んでいる老人社会の福祉や医療費、毎年3万人を下らない自殺者数、そして、青少年の凶悪犯罪や、公務員のあまりに杜撰な仕事ぶりの数々、これらの、すべてとは言わないが、その原因の多くは、国民も政治家も役人も、唯唯、豊かな物質社会をめざし、過度な競争を煽ってきたことだと言うのに異存はないと思う。

先週土曜日(7/12)、朝日の天声人語の中で、吉野弘さんと言う方の詩が紹介されていた。

生命は、自分自身では完結しないように出来ているらしい(中略)

しかし、互いに欠如を満たすなどとは 知りもせず 知らされもせず

ばらまかれている者同士

自然界の生物が、知らないまま互いの欠如を満たしている者同士だとしたら、人と人も、その場の利害打算で繋がる繋がらないとは無関係に、互いの満ち足りないところを満たしてくれる存在と言う事になる。

長い人生、誰にも山も谷もある。 『うさぎと亀』の話は間違いなく人生の大きなダイナミズムであるが、最後に勝った亀が偉く、油断したウサギが愚かだったいと言う話ではなく、世の中には、お互いが欠如を満たす存在として、うさぎも亀も必要なんだと考えるべきではないか。 

そう考えれば、SO!が今後めざすシェアの形態が、社会的立場や財産や年齢や性別に関わりなく、互いの欠如を満たす存在として、打算的ではなく、子供のように無邪気に、人と人が接する楽しさのある共生施設(仕事の場であったり、住まい)だと言うのが、ハッキリと見えてくる。 

仕事も暮らしも愉しむ大人の井戸端『SO!長屋』は、そんな夢の実現の為の第一歩になるだろう。

そして、数年後には、『長屋族』と呼ばれる、現役ビジネス世代、老人、シングルマザーなど、様々な老若男女が共生する場を実現出来るかもしれない。それこそ、楽しみである。

投稿者 kitamura : 2008年07月16日 00:45

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